1970年5月・三菱大夕張鉄道混合3列車乗車記

timetable

清水沢駅出発

joshaken no4
清水沢駅発車

国鉄夕張線の気動車が発着する清水沢駅。その1番ホームには清水沢~大夕張炭山間・17.2Kmを約1時間ほどで結ぶ三菱大夕張鉄道の混合列車が停車している。長い石炭車の後ろに客車が2両連結されSLは遥か前方で煙をあげている。構内にはこの大夕張鉄道で運び出されてきた石炭車や北炭清水沢炭礦からの石炭車が並んでいる。

大夕張炭山までの乗車券(80円)を購入し、早速客車に乗り込むと長年の間に染み込んだ石炭の香りが鼻腔を刺激した。朝夕の列車は通学生で込み合うのであろうがバスや自家用車の普及により利用客も減少し、乗客は各車両に10名ほどである。

定刻の9時16分、遠くで汽笛が響き、ガタンと衝撃が加わると客車は転がり出す様に動き出した。

j-1
清水沢発電所

北炭清水沢電力所

清水沢駅を出ると列車は商店街外れの踏切を過ぎ大きく左に回り込む。行く手の北炭清水沢電力所(写真)からは煙が白く吐き出されている。夕張川畔の要塞のような発電所を見下ろしながら進むと、北炭清水沢炭礦の輸車路が右手から寄り添ってくる。立坑や捜検所と炭礦街らしい光景の中を進むと、列車はやがて清水沢ダムで出来た人造湖に沿って進む、対岸には清湖街の炭住アパートが広がり、住之江町の職員住宅が列車の軒をかすめるようになると遠幌駅に到着する。

北夕炭礦閉山と南大夕張新礦


北菱鹿島炭礦

北夕炭住街

南大夕張新礦

菊水町・青葉町

遠幌駅で5~6人ほどの乗降客があり9時28分定時に発車する。遠幌加別川を高い鉄橋で渡ると右手には岳見町の炭鉱住宅が続き、左手には農地が広がる。北菱鹿島炭礦(写真)のベルトコンベアを抜けると、北夕炭鉱のポケットがあるが4月に既に閉山となっており、夕張川対岸の台地上に広がる炭住街(写真)も静けさにつつまれている。

やがて新しい商店が軒をかすめ9時40分南大夕張駅に到着する。ここは昭和41年から開発が進められた南大夕張新礦(写真)の石炭積出駅で昨年10月から試験採炭を開始し、今年の8月には営業採炭を開始する予定となっている。駅構内近くには新しい選炭機がそびえ、石炭を満載した貨物列車も停車している。菊水町・青葉町(写真)では北夕とは対照的に新しい炭鉱住宅の建設が続いている。

シューパロ湖と夕張岳


夕張岳遠望


大夕張ダム

シューパロ湖と三弦橋

南大夕張駅で5人ほどが降車し、新たに10人程が乗ってくる。一部の石炭貨車を切り離し定刻の9時45分に南大夕張駅を発車、120万㌧規模の出炭を目指し建設中の南大夕張新礦の施設を見下ろしながら列車は青葉トンネルに進入する。

煙にまかれながら列車がトンネルを抜けると、車窓からの景色は一変する。窓外には昭和36年に完成した大夕張(二股)ダム(写真)による人造湖・シューパロ湖(写真)が広がり、ダム管理事務所の対岸にはかつての森林鉄道の鉄橋・三弦橋がその造形美を湖面に映している。

短い崩落覆いを抜け列車は細長いシューパロ湖に沿って北上する。昭和37年6月、行楽客誘致のため設置されたシューパロ湖駅もバス路線の充実により乗降客が低迷し昨年9月末に廃止され、駅舎の土台が寂しさを誘う。シーズンオフなのか湖畔の公園にも人影は無い。吉野沢トンネルに入る辺りから遠くに夕張岳(写真)が現れる。明石沢の短い鉄橋を渡ると明石町駅に到着する。乗降客は少なく夕張岳への登山客であろうかリックを担いだ数人が降りていったが、この駅の山側の高台に夕張東高校があり朝・夕の通学時間には狭いホームは高校生達で賑わう。

旭沢鉄橋と炭住街


炭住街

大夕張駅に停車する列車

大夕張礦選炭機

列車は一分の停車で10時4分、明石町駅を発車する。ここから終点の大夕張炭山までは大夕張炭礦の炭住街(写真)がシューパロ川の河岸段丘に整然と並んで続いている。

列車は目のくらむ高さの旭沢鉄橋を渡る。昭和4年、炭礦の北部開発・移転に伴いこの鉄道も延長され南大夕張~大夕張間に8本の鉄橋が架けられたが昭和30年代後半までにダム工事や道路工事に伴い埋め立てられ、いまでも残っているのは明石沢とこの旭沢の2本の鉄橋だけとなってしまった。

対岸の常盤町の炭住街を見下ろしながら列車は山小屋のような駅舎の千年町駅に到着した。

数人が列車を降り、発車。山手には大夕張営林署があり、岳富町の商店街を築堤から見下ろしながら大夕張駅に到着した。

ここでほとんどの乗客が下車する。2分の停車のあと発車、定刻の10時19分、大夕張炭山駅に列車が到着した。構内の奥には巨大な選炭機やずり山(写真)がそびえ、石炭貨車やメタノールのタンク車が数多く停車して炭礦の活気が伝わってくる。

石炭産業の不振が伝えられるが、ここ大夕張は南大夕張の新礦と共に歴史も浅く、しばらく合理化・閉山とは無縁のようである。

(文章・奥山道紀)